冷えていく世界の中で声を上げる
文・平山圭
絵・yuko maegawa
私は日本で暮らしている在日韓国人です。この文章を読むみなさんは、戦前に日本に移住しそのまま何世代にも渡って日本で暮らしてきた人々について、新聞や本などで読んだことがあるかもしれません。ただ、私は両親が留学生として日本に渡ってきてそのまま日本で就職した経緯で暮らしているので、一般的にみなさんが思い浮かべるであろう在日韓国人とは少し事情が異なるかもしれません。
「在日韓国人(もしくは在日コリアン)」といっても、人によって日本で暮らすようになった経緯や自認するアイデンティティはさまざまです。意外に思われるかもしれませんが、同じ在日韓国人だとしても韓国語と日本語を話すのか、韓国語だけ、もしくは日本語だけを話すのかというのも人の事情によりけりです。ともかく、私は「永住」という資格を持った在日韓国人として生活しています。
細かい名称の方はともかく、いずれにせよ私は韓国国籍でありながら日本で幼い頃から長らく生活していることになります。日本の幼稚園に通い、義務教育も日本で受け、共通テストを経て現在の大学に通っています。なので家族や親戚と話す韓国語よりも日本語のほうが私には母国語に近いですし、あなたの故郷はどこですかと聞かれたら間違いなく今私が暮らしている地元を答えます。
幼い頃は言語の壁もないので、日本の生活で困ったことは正直言って一度もありませんでした。たまに珍しがられることもありましたが、私自身は外国人であることを理由にわかりやすい差別やいじめを受けたことはありません(気づかなかっただけかもしれませんが)。
ところが中学生になった時に、どうやら自分には選挙権がないらしい⋯ということを知りました。現在、日本では外国籍を有する住民に対して参政権が認められていません(一方、納税などの義務はほかの日本国籍住民と同じように果たす必要があります)。そのため日本で暮らしていて韓国籍を保持する私にも、もちろん選挙権はありません。当時はそこまで深刻に考えていなかったのですが、18歳に近づくにつれて、選挙があっても参加できないということが何となく小さな引っかかりとして自分の中に残っていきました。
もちろん政治に参加するという行為は選挙だけではありませんし、自治体によっては条例に関する投票は認められている場合もあるようです。ただやはり私は今日本で生きていて、日本のニュースに触れて日本の経済の中で生活しているのに、決定的な選挙権を持っていないということに対しては、どうしても違和感が残っていました。
補足すると、ヨーロッパでは外国人に対して「地方参政権のみ付与する」といったように限定的に参政権を与える国もあるそうです。その点を踏まえてみても、日本は外国籍住民が政治に参加するということにはあまり積極的ではない、と読み取ることもできます。
大学に通い始めてからしばらくたった頃のことです。毎回1つのテーマに関してみんなでディスカッションをすることが主な課題の、英語の講義に参加していました。そこでとても印象深い経験をしました。
授業のテーマは、確か「外国人とは何か」でした。私は先述したように日本で暮らす外国人として小さな引っ掛かりを覚えていたので、このテーマは深く考えさせられるものがありました。
私の通う大学は留学生が多くいるため、そのクラスにももちろんさまざまな国籍やルーツを持つ人々がおり、偶然にも私と同じように「日本に昔から暮らしているが、公式には外国人」というルーツの学生と出会いました。私のように選挙権がないだけでなく、彼女のように幼いころから日本で暮らしてきても、在留資格の関係でアルバイトにすらつくことができない人もいる、ということを知ったのは恥ずかしながらその時が初めてでした。
あの時の授業は、普通に生活しているだけでは目に見えない、小さな理不尽や不便に遭遇している人々が世の中にはたくさんいるということを私に自覚させてくれました。
私はこの理不尽に反対する声全般を「怒り」と呼ぶことにしています。怒りはネガティブな感情と捉えられがちですが、理不尽や差別に対して冷静に怒り、上げられた声によってそれらが是正されてきた歴史が多くあることを考えると、ただ単純に怒りを抑えることだけが美徳とは言えないことがわかります。
大学生になってから、それまで見えなかった、社会の中の隠れた様々な「怒り」が見えてくるようになりました。学生が大学に通うことが困難になるほどの授業料の高騰。守られないマイノリティーの人々の人権。今まで私に見えていなかっただけで、不当な差別や理不尽に大して多くの人が声を上げていることを知りました。
ところが、日本においては個人的に「怒り」を表明し実際に行動につなげている人々に対して、「冷笑」という反応が広く一般化しているように思います。SNS を少し眺めてみるだけでも、なぜか理不尽を受けている人やそれに対抗している人々が責められ、加害者側が擁護されるさまであふれています。
自分とは関係ないことだから?
「怒り」の表明はただことを荒立てるだけだから?
でも、本当にそうなのでしょうか。
現状、社会のルールが変われば、あるいは時代の価値観が変化すれば、もしくは生活する環境が少し変わるだけで、どんな人でも弱者になりえます。
韓国語よりも日本語を流暢に話し、日本での生活を何不自由なくこなせている私が、選挙の時期だけは指をくわえて世間を眺めるしかない弱者になって初めてそのことに気づいたように、特権は享受できなくなって初めて目に見えるようになります。もちろん苦しい立場の人々に気づけない人もいるでしょうし(特に不自由なく暮らしている人ほど、特権を持っているとは気づきにくいものです)、中には目の前の生活をていねいにやりこなしていくことに精一杯の人もいます。
ただ大切なのは、そのような人たちが決して世の中の不条理や差別構造に賛同しているわけでないということです。怒れる人が怒れない人々の分も背負って立ち向かう、また気づいていない人には声をかけて連帯のバトンを繋いでいくということが、誰もが生きやすいよりよい社会をつくるために必要なことだと思います。
12月3日、韓国の尹錫悦大統領が理論上でも人道的にもありえない戒厳令(非常厳戒)を宣布したことはみなさんご存知かと思います。その際、ソウルのたくさんの市民たちが国会に集まり、抵抗の声を上げた場面をテレビニュースで見た人も多いでしょう。
幸い死傷者も出ず、非常厳戒の解除が早急に表明されたことによって深刻な事態は免れました。しかし、その後の日本の SNS では国会に集まった市民に対して、やはり冷笑的反応が起こりました。私は、あの一連の出来事が SNS で言われるような「茶番」などという言葉で片付けられる事態だったとは決して思いません。
韓国には、たった数名の政治家の野心による独裁によって、多くの命が犠牲になった歴史があります。デモ闘争を繰り広げた学生たちはもちろん、いつもと同じように日常生活を過ごしていた罪のない民間人までもが、わけもわからぬまま軍によって虐殺されていきました。
今回の事件が誰の血を流すこともなく約6時間で収束したのは、韓国市民のほとんどが、多くの民間人たちの命が犠牲になったあの歴史上の「怒り」を鮮明に覚えていたことに起因しているのは間違いありません。
現在の日本の社会の雰囲気は、私たちが気づかぬうちにさまざまなことが理不尽や差別を助長する方へと少しずつ傾いているように思います。冷笑している暇はありません。少しずつでも、完璧でなくとも大丈夫です。他者のために怒ることは、同時に未来の自分のために怒ることにもなるかもしれません。
2024年12月12日
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- 平山圭
- Kei Hirayama
※ 平山圭は今回のエッセイのためのペンネームです
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イラスト:yuko maegawa
https://www.instagram.com/yuko_maegawa_illustlation/