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STAND UP STUDENTS Powered by 東京新聞

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いま、わたしたちのまわりで、
起きていること。

毎日の勉強や、遊びに恋愛、就活。普段の暮らしの中では見えてこないたくさんのできごと。環境のことや政治、経済のこと。友達の悩みも、将来への不安も。小さなことも大きなことも全部、きっと大切な、自分たちのこと。

確かなこと。信じること。納得すること。コミュニケーションや、意見の交換。
あたりまえの自由さ、権利。流れてきた情報に頼るのではなくて、自分たちの目で耳で、手で、足で、感動をつかんでいく。

東京新聞『STAND UP STUDENTS』は、これからの社会を生きる若者たちに寄り添い、明日へと立ち向かっていくためのウェブマガジンです。等身大の学生たちのリアルな声や、第一線で活躍する先輩たちの声を集めることで、少しでも、誰かの明日の、生きる知恵やヒントになりたい。

時代を見つめ、絶えずファクトチェックを続けてきた『新聞』というメディアだからこそ伝えられる、『いま』が、ここに集まります。

STUDENT NOTE

19
山口直哉
Naoya Yamaguchi

小さな声に耳を傾け、社会のこと、これからのこと、身近なことを一緒になって考えていくために、学生が書いたエッセイを『STUDENT NOTE』としてお届けしています。

日々の暮らしの中で思ったこと。SNS やニュースを通じて感じたこと。家族や友人と話して気づいたこと。もやもやしたままのこと。同世代の学生が綴る言葉が、誰かと意見を交わしたり、考えたりする<きっかけ>になればと思っています。

第19回は、「シス男性」でありながら、フェミニズムを通じて女性が抱える「生理」の問題に向き合い、「知る機会」を得るためのさまざまなアクションを起こしている山口直哉さんによるエッセイです。

生理を想像するということ

文・山口直哉
絵・SaBo


「今日、生理でちょっとしんどいわぁ」
「えっ、、あぁー、そうなんだ。⋯⋯薬とか飲んだら?」

なんて知識と想像力に欠け、表面的な「優しさ」に満ちた会話だろう。
でもこれが大学1年生の僕が実際に女友達に発した言葉だった。

僕はシス男性だ。

シス男性とは「男性」という性別を生まれた時に割り当てられ、男性として自分を認識しているということだ。そして僕はシス男性として21歳の今まで生きてきた。

男性として生きる中で、僕には*生理というものに触れる機会は全くと言っていいほどなかった。

* 医学的に正確なのは「月経」という言葉だが、本エッセイでは「生理」という言葉をあえて使用する。より日常的な理解・ニュアンスのためと、医学的な現象に限らず、それに付随する様々な経験もこのエッセイで扱う内容に含めたいからである。

小さい頃、母親と姉が生理について話していた時のことを今でもよく覚えている。

彼女らが話している内容を何も理解できなかった僕は「何の話? なに、セイリって?」と聞いた。するとそれまで経験したことのないほど強い口調と圧で2人は僕にこう言った。

「生理ってその言葉を絶対に、外で言っちゃダメだからね」

もちろん昔の話だから多少の強調はされているだろう。それでも、その時の2人がとても怖かったのを覚えている。その後の小・中・高、どの段階の保健体育の授業においても生理について正確に学んだ記憶はない。

中学では男女分かれた保健体育の授業をした日があった。その時、女子の方では生理についての話もあったのだろうか。とにかく高校を卒業した時点では僕は生理に関してほとんど何も知らなかった。知っていたのはせいぜい、生理とは「月イチで女性に起こるしんどいこと」で「外で言っちゃいけない言葉である」ということだけだった。

そんな僕は都内のとある大学に入学した。そこは女子学生の比率が男性に比べて圧倒的に多い、珍しい環境だった。

この大学で、僕はフェミニズムに出会った。


出会いのキッカケは、高校生の頃から何となく抱いていた電車の中に溢れかえる脱毛の広告への違和感だった。電車でその類の広告に囲まれるたびに、なにか絶対的な価値観を押し付けられている、そんな感じがした。男子高校生の僕はその広告のターゲット層にかすりもしてなかったけれど、なんだか息苦しかった。

その漠然とした違和感がぬぐえない日々の中、大学でフェミニズム入門の授業を取ってみると、フェミニズムはひとつの答えを与えてくれた。

見られる対象として、評価される対象として位置付けられる女性。その逆にいる、見て、評価する主体として、権力構造に組み込まれた男性。そして女性に対して資本主義社会の中で商品として提示される美しさの正解、などなど。他にもその授業からは、それまで無自覚だった色々な「特権」に毎週気づかされた。「男性だから」という理由でのみ自分は経験してこなかった、差別やハラスメント、一方的に課される、人生における選択肢の制限など。そこには、自分が知らなかった、もしくは知ろうとしてこなかった様々な「理不尽さ」が広がっていた。

それは、後ろから重たいハンマーで頭をゴーンッと殴られるような、鈍い衝撃を受ける日々だった。この経験は苦しくもとても刺激的なものだった。

そんな、社会に深く組み込まれた構造的な暴力について学ぶ経験から、僕はあるひとつの考えを持つようになった。

「ここまで学び知った以上、この暴力について何もしないのは、それらを認め、なおかつそこに加担することと同じだ」

こうしてある種の責任感と罪悪感が入り混じったような、なんとも不思議な感情と共に僕はフェミニズムを学んできた。こうしたフェミニズムとの出会いと同じようなタイミングで、僕はもうひとつ重大な出会いをした。

それが、生理との出会いだった。

それは大学で会った時や、遊びに行った時などさまざまな場面で起きた。友人から「今日、生理でしんどくてさ」と伝えられることが何度かあったのだ。

男女比の偏りに加えて、比較的オープンかつリベラルな校風も背景としてあっただろう。加えて僕がジェンダー系の学生団体に所属していたのもあったのかもしれない。とにかく話しちゃいけないはずの「生理」をごく自然に会話に出されて、僕はうろたえた(このエッセイ冒頭の会話がまさにこの「うろたえ」の結果だ)。

具体的にどんなことなのかはわからない。けど、つらかったり痛かったり大変なのは知っていたから、友人としてできることは何でもしてあげたいと心から感じた。

それでも
・自分は何をすべきなのか。
・どんな声をかけるべきなのか。
は何もわからなかった。

それはそもそも
・自分に何ができるのか。
・自分に何が言えるのか。
を知らなかったからだ。

その時僕はとても大きな無力感を覚えた。

目の前の友人がつらい状態にいるにも関わらず何も言えない、何もできないというこの状況がどうにも納得できなかった。なぜ自分がこんな状況にあるのか、その理由がわからなくて気持ち悪かった。

ケガをしていれば絆創膏を差し出せる。
熱があるなら水分補給と十分な睡眠を促せる。

なのになんで「生理」になった途端、僕は何も言えないのだろう?
(もちろん生理は「ケガ」でも「病気」でもないのだが)


こうした違和感・無力感に出会うたびに僕はその理由を考えた。そして、社会に深く刻まれた生理のタブー視という問題に気がついた。生理は生まれ持った身体に起因するものだ。つまり本人の選択ではない。にも関わらず生理は社会において「個人的」なこととして扱われることが求められる。

公の空間で話すことは憚(はばか)られ、生理用品や痛み止め・ピルなど必要なものは自己負担。生理用品を無償配布する国もある中で、日本では無償配布どころか消費税の軽減税率の対象にすら入っていない。

でも、社会を責めているだけで良いのだろうか。結局のところ社会を作るのは一人ひとりの個人で、僕もその一員なのだ。つまり生理の経験を個人の次元に押し込める暴力を、僕は容認し、加担していることになる。

そう考えるうちに、男性として生きてきた僕には生理について「知る機会」と「知ろうとする姿勢」の両方が欠けていたことに気がついた。だったら、自分がその「生理について知る機会」になってやろうと、大学内で生理非当事者に向けて勉強会のようなイベントを何度か開いた。

基本的な知識として、生理が起こる仕組みや生理にまつわる身体的・精神的症状を皆で学んだ。生理に対しての解像度を上げるために、ナプキンやタンポン、月経カップ、吸水ショーツなど様々な生理用品の実物に触れる機会を設けた。実際に水を吸わせて、その後の手触りから「不快感」を体験してみる試みも行った。

それぞれの知識のインプットの後には、生理を経験する人・経験しない人ごちゃ混ぜで色んなディスカッションをした。生理当事者はそれぞれの生理に関する経験をシェアする。非当事者は、わからないなりに自分が考えてることを言葉を選びながら話してみる。そんな新しい空間と経験を、このイベントを通して生み出すことができたと思う。

イベントに参加してくれた男性からは、

「男性の自分は生理について何も知らないという自覚があったから、生理について話していいとはとても思えなかった。こうした機会があって初めて生理についての対話に参加する意欲が生まれた」

というコメントをもらった。このコメントにとても共感したと同時に生理への姿勢の変化のキッカケになれたことは嬉しかった。他にもイベント開催の経験からさまざまなことを学んだ。「生理」と一口に言っても、その経験は多様であり「当事者 / 非当事者」の二分法は暴力性を帯びる危険があること。そしてそのグラデーションがあるからこそ、当事者間での生理に関する対話にも、大きな意義があること。また、生理の話題は「男性 / 女性」の二分法で語りきれるものでもないことも忘れてはならない。性自認が「男性」であっても生理を経験する身体を持つ人はいるし、その逆も然りだからだ。加えて「男女」の二分にとらわれない人の存在も見過ごしてはならない。

そして何より、生理非当事者にとって「想像力」が重要なキーワードになるということをここでは強調して伝えたい。非当事者は生理を自分では経験しないし、できない。だからこそ自分じゃない誰かが経験する苦しみ・つらさを「想像する」という姿勢が必要だ。その想像力によって僕たち非当事者は、無自覚に誰かを傷つけることを防げる。誰かの「つらさ」をその人の中だけに押し込めようとする構造的暴力を、少しは和らげられる。

それは目の前の大切にしたい人たちだけじゃない。共に社会に生きる、顔も知らない「誰か」も含めて。


僕はフェミニズムを学ぶ動機と同様、罪悪感と責任感に似た何かをモチベーションに、このエッセイを書いている。でもこれはあくまでこのエッセイの動機であって、目的ではない。つまりこれを読む「生理を経験しない人」に同じ罪悪感を植え付けることが目的ではないということだ。そんなネガティブな方法ではこの世界に思いやりはもたらせない。

繰り返すが、必要なのは想像力だ。

自分が経験し得ないことに対しての想像力をどう持つのか、なぜ持つべきなのか。これはそれぞれ違う答えがあって当然だし、そうであるべきだと思う。そしてその想像力には、正確な知識(のインプット)と生理について「話す」という実践が必要不可欠だと、僕は考えている。だからこそ誰しもに生理に関する知識が広がることと、生理についての対話がもっと公の空間で行われることが必要なのだ。

最近では、生理へのタブー視が定着する前の小・中学生の段階で性教育を包括的な形でカバーする試みが、産婦人科医や助産師などによって広がっている。生理の話題に限らず、性に対するタブー視は一度作り上げられたモノを壊すより、その構築自体を防ぐ方がより効果的かつ効率的だ。その意味でこうした取り組みはこれからも広がってほしい。

また、そうは言っても今を働く大人たちへのアプローチも必要だ。「生理 企業 取り組み」と検索すればたくさんの企業が色々な方法で生理に関して取り組んでいることがわかる。とは言っても、それが政治の場で扱われることも少なければ、社会全体の変化として捉えられるにはまだまだ足りない。働く現場でも生理に関する理解・想像への取り組みがもっと広がることは絶対に必要だ。

こうした取り組みを大切に見つめながら、経験のできない「生理」を知ろうとする姿勢が、生理非当事者たちの間で少しづつでも広まってほしい。そうすれば、この社会はまた少し温かく、優しく、住みよいものになると僕は信じている。

そして僕はこの文章を通じて、変化のほんの一部になることができれば、それ以上に嬉しいことはない。

そして大学を卒業してからは、「生理」を社会全体で考える話題として普及させられるような、そんな挑戦ができる人間になりたい。

2024年10月4日

※ エッセイへのご感想やご意見がありましたら STAND UP STUDENTS の公式インスタグラム へ DM でお送りいただくか、匿名でも投稿できるフォームにお送りください。STAND UP STUDENTS では、今後も、学生たちがさまざまな視点で意見や考えを交換し合える場や機会を用意していきます。お気軽にご参加ください。

山口直哉
Naoya Yamaguchi
2003年生まれの大学3年生。大学では政治学とジェンダーセクシュアリティ研究を専攻。好きなことはアイスコーヒーに入れたミルクの "ゆらゆら" を眺めること。嫌いなことは満員電車と豆料理。2024年9月からスコットランドに留学中。

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イラスト:SaBo
https://www.instagram.com/saboooo1995/

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